今年度も残りわずかになりました。年と共に1年間の過ぎ去ることの速さを感じています。子どもの頃は何もかも、やること見るものが全て新鮮で記憶に残ることが多いので時間も体験の記憶や印象と共にたくさん積み重ねながら流れているそうですが、経験値が上がれば、大体の予測がつきますし、予測通りに日々過ごしていれば記憶は更新されず気づけば既に時は過ぎているということなのでしょう。先日人間ドックに行き、胃カメラの検査を受けましたが、どうも苦手で苦しい記憶がよみがえり、これまで以上に苦しみに耐えねばならない時間が長く感じました。嫌な体験や記憶がフラッシュバックすることでパニックを起こす子どもたちの心情が少し分かる気がしました。検査が終わったら、我慢していたスイーツを食べようと自分へのご褒美を目標に何とか乗り切りましたが、検査数値はおそらく、多分、、、でしょう。
冬季パラリンピックは、ロシアのウクライナ侵攻によって、台無しになってしまいました。あんな悲惨なことを自ら起こすことができるのだと、ヒトという生きものの恐ろしさを感じています。戦争の愚かさは歴史から学んでいるはずですが、一度火が付いた感情的な正義を止めることは難しい様子です。かつての日本もそうだったように、自国民に真相を伝えず隠し、情報統制するという手段も技術が進歩してもやることは何ら変わらないのだと知りました。ヒトの未来を良い方向に進めたい、多くの人々はそう願っていると信じます。
さて、今回は「岡田馨先生」についてお話させていただきます。岡田さんは旭出学園創立30周年の年に入職されました。私の入職はその1年後の1981年です。三木先生との就職面接に臨んだ時、「うちには変わった経歴の職員が多い」という話の中で「工学部出身なんだが、子ども好きで、うちの子どもたちと遊びたいというのがいる。こういう先生が良いんだよ。」と自慢げに話されていました。その人物が後に「岡田先生」だとわかりましたし、中川信子先生は、「発達障害とことばの相談」(2009 小学館)で三木先生のエピソードを書かれていますが、職員を採用する時に「君は子どもと遊べますか?」と聞く場面があり、そこでも「これ岡田先生だ。」と確信しました。本当に子どもが好きで、今でも昼休みには中高専の生徒とサッカーやキャチボールをしている姿が毎日グランドにありました。高等部専攻科の担任や学部主任を若い時から任され、進路担当を長く担い、企業就労を目指す生徒の就活での苦労話を、同僚にするときには笑い話にしてたくさん伝えてくれました。下町の工場に何度も足を運んだ話、名刺の渡し方を間違えた話、「もう来るな!」とスリッパを投げられた話、その頃小学部にいた私には驚く事件ばかりでした。今と比べ当時は職員数も児童生徒数も少なく職員会議でもケースについて詳しく話し合われて、学部が違っても共有していることが多かったと思います。就労支援センターなどない時代でしたので、企業に就職した卒業生を支援する「あおば会」を創り、ずっと支えてきたのも岡田先生です。40年も支援を継続している生徒もいますし、5時近くになると卒業生から岡田先生宛に電話がかかってくることもしばしばです。教頭を10年間も勤めあげ、私の校長時代も支えてくれました。私は岡田先生がお膳立てしてくれたものに乗っかっていただけでした。事務所でも何でも話して助けてもらう関係は、何だか若かりし頃に戻ったようで一緒に乗り越えながら楽しませてもらった5年間だったように思います。岡田校長にバトンが渡りほっとしていましたが、このコロナ禍の対応は本当にしんどかっただろうと胸が痛みます。岡田先生だから何とか切り抜いて次にバトンを渡すことができたと思います。本当にありがたいです。次の時代へと時は進みますが、岡田先生を必要としている卒業生も保護者も教職員たくさんいますし、年を重ねた者だからできることもあり、できることがあれば力になりたいという思いは私も同じです。旭出の同じ時代を生きてきた仲間であることは変わらないですし、相談もしますし、これからも旭出との結びつきは変わらないと思っています。お世話になりました。ありがとうがざいました。またね。
旭出学園をご卒業された卒業生、修了生のみなさん、保護者のみなさん、おめでとうございます。新しい場所でもご自分の力が発揮できますよう、これからも楽しみの多い日々でありますようにと願っています。旭出学園は生涯支援をめざしている学園です。うれしいことがあれば、お知らせください。困ったら思い出して連絡してください。これからもみなさんの歩みを応援しています。
マイペース 歩む道程 花も実も いつ咲き生るか 待つは楽しき